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2010/11/07

★「富士見産婦人科病院事件」知ってますか?[1] それから「仲裁」の話☆

昨日は5年ぶりに埼玉県の所沢市へ行った。

前回は、富士見産婦人科病院事件の裁判の勝利を祝う集まりに参加したときだから、久しぶりの所沢だった。

今回は富士見産婦人科病院事件の記録集の出版を祝う集まりで、被害者同盟の人たちの心のこもった手料理とともに語り合う、ひさしぶりの同窓会。


30年来の支援者の中で、15年の私は新しい仲間のほう
に属する。

私が関わり始めたころは、始めのころの熱気が去り、たぶん みんなが疲れきっていたころだった。
関わる弁護団の人数も、初期よりずっと減っていた。



先が見えない 長すぎる裁判。

私が知り合ったころでも、すでに20年がたっていた。

疲れるのは当然だった。

裁判の傍聴にマスコミの姿はなく、傍聴席は被害者原告代表の世話人会の人々と 支援の代表者1人で、計7~8人という 寂しい日もあった。
そんな中、私は世話人会の人々の後を金魚のフンのように追いながら、密度の濃いひとときを共有した。

それは私にとって かけがえのない、生きた社会勉強の場だった。


だから 同窓会と言っても、再会を喜び合う人々の中で、私は世話人会の人々以外に 知っている顔はほとんどなかった


(クリックで読めます)
Photo_3

この問題が事件として取り上げられたころ、私は夫の海外勤務で、日本と外国を行ったり来たり。
事件は遠い存在だった。


私が被害者の人々と知り合ったきっかけは、15年前、日本に帰って 私自身が子宮筋腫の患者になり、担当の医師が 手術後に、ナース・ステーション近くにいた「暇な人々」に 私の大切な子宮を見せたことから はじまった。


これは私が夫の海外勤務の同伴から先に帰国して、長女の入学した大学の近くに住まいを定めたばかりの、まだ土地勘もなにもない町の片隅で起こった話だ。

「富士見産婦人科」という病院とはまったく関係のない。私が住む東京郊外の町の自宅からほど近い地元の病院と、私1人との間に起こった
「事件」だった。

あとから周囲の人たちに、あの病院だけは行ってはいけなかったと言われたが、すべてが終わったあとの話だった。

   *―――*―――**―――*―――**―――*―――*

私はそこで、子宮の摘出手術を受けた。
手術後 間もなく、部屋の世話をする係の女性が、ゴミ箱のゴミを捨てに来た。

ゴミ箱を抱えながら その人は言った。


「あなたの子宮、見たわぁ!大きかったのねぇ。たいへんだったでしょう? 先生に手が空いている人はおいでって言われて、みんなで見せてもらったのョ」

その時の恥ずかしさと衝撃は、未だに心から離れない。


あたりまえのことだけど、私は今、子宮がなくても あらゆることを考えることができる。
でも、当時は
「女は 子宮でものを考える」
なんていうことを平気で公言する男性が、まだ表舞台で活躍できる時代だった。
「子宮」という言葉を 口にするのも恥ずかしかった。

手術までに、私なりの葛藤はあった。
子供は二人いる。
これから子供を生む予定はない。
しかし子宮がない 自分は、考えられない。


今 考えると、どうしてあんなに悩んだのかと思うほど 私は悩んだ。
泣いた。


そんな直後の話だった。

   *―――*―――**―――*―――**―――*―――*

「えッ?!何であなたが私の子宮を見たの?」

私は顔が熱くなって、すぐに冷たくなるのを感じた。
冷たい汗が流れた。

子宮は取り出しても 私のものだ。
それが誰かの勉強のためになるなら、まだ私は救われる。

それは医療に直接関係のない人たちや、<手が空いている、暇な人>に<見せるもの>では、まったくない。


「子宮」という単語
は、今でもそんなに大きな市民権を持つ言葉ではないけれど、少なくてもここ10年の女性や患者の人権は目覚ましく変わってきた。

しかし、当時の私は、力になってくれる人を探す方法さえ、なかなか見つからなかった。
私はそれまで 市民運動にも学生運動にもあまり興味がなく、いわゆる「戦う女」であったことはない。

それでも、病院を相手に戦おうと思った。


患者にも人権はある。
病院は私に謝るべきだ と思った。


私は海外に長く住んで日本の事情がわからなかった。
でも、公私立の相談機関を訪れ、弁護士会を訪れ、可能なところにはすべて電話をかけた。

人権を扱う市民団体にも紹介されて関わった。

でも、あちこちで一番に言われたことは、
「あの富士見産婦人科事件でさえ、20年も裁判をして、まだ結果が出ない。あなたは個人だし、患者の人権だけで戦うのはむずかしい」
「あなたは女を振りかざしている。こんなもので戦えるはずがない」
同じ女性のカウンセラーや弁護士に、こう言われたこともあった。

友人の紹介で、いくつかの政党関係者が自宅に来たり、電話で話したりということもあった。
紹介してくれた友人たちとの関係は今も変わらないが、
何かの役に立ったと思えるような出会いは1つもなかった。

  *―――*―――**―――*―――**―――*―――*

さんざん断られた揚句、私は人権運動の集まりの主催者の紹介で、1人の男性の弁護士と出会った。


そして、ほんの1年間だけ、私は"戦う女"になった。

何で 1年だけだったのか?

失望があまりに大きかったから?
私が我慢強くなかったから?
私はもっと、取り乱して泣き叫んだりした方がよかったのか?



一番の理由は、弁護士が逃げ腰だったということ。

私の能力では それ以上の人脈をたどれず、どこかにいたかもしれない人権派の弁護士に出会えなかったということに尽きると思う。

それに、今のようにインターネットで簡単に情報を得られる社会でもなかった。


   *―――*―――**―――*―――**―――*―――*

紹介された弁護士には、心を尽くして話をした。

着手金も支払い、会うたびに30分数千円の時間給も支払った。

彼は目前に事務所の開設を控えている超多忙な人だったが、私が相談した地元のNPOの代表者と親しかった。恐らく断れなかったんだと思う。

裁判で顔をさらしても構わないと思っていた私に、最初から、裁判をしても勝てないと言った。

それから≪仲裁≫という弁護士会のシステムの場に、私を連れて行った。

話は回を重ねるたびに、私の望まない方向へ流れて行った。


あまり納得がいかなかったので、毎回 終わった後に支払う仲裁費用のカウンターに座っている女性に、私が変だと思っていることを話した。

「仲裁は、相手方とこちらの話し合いで、できるだけ中間地点に近く 歩み寄るシステムです。あなたのお話は、これには合わないと思いますけど」
と、女性は不思議そうに言った。



そこで私は初めてハッと気がつく。

たしか弁護士からパンフレットは貰っていた。

私はこんな簡単な事実に気付かないほど、ここまで断られ続けて疲れ果て。
やっと引き受けてくれたその弁護士に すべてを委ねていたので、内容をまったく検討しなかった。

≪仲裁≫は 文字通り≪仲裁≫で、双方が歩み寄らなければならない。

この問題で、私が歩み寄れるはずは なかった。
その弁護士は、もちろん知っていたはずだ。


  *―――*―――**―――*―――**―――*―――*

≪仲裁≫
  ↓
http://niben.jp/soudan/service/chuusai/

私の仲裁は、弁護士会館の1室で行われた。

仲裁人が弁護士なのだから、実際は私のように個人で弁護士を雇う必要のシステムで、回数も決められていた。


狭い部屋で、手を伸ばせば間違いなく届くような細長い机を挟んで、仲裁役の弁護士と私は向かい合った。
私の弁護士は横に座り、目の前の仲裁役に、私が話せばいい話を代わりに弁護士言葉で話す。
仲裁役も弁護士口調で返答する。

その光景は、今 思うと悪夢を通り越して滑稽だったと思う。

病院側は当然すべてを知り尽くし、毎回、かつての担当医が一人だけで来ていた。


それが3~4回ぐらい続き、あっという間に終わりを迎えた。


私は弁護士に最初の手付金だけでなく、毎回、意味のない「仲裁」に付き添う彼に時給を支払い。それとあまり変わらない仲裁の手数料も弁護士会に払った。

始まってすぐにおかしいと思ったのだから、すぐに止めれば良かったと思う。
でも、善意で紹介してくれたNPO関係者のことを思い、また、
あの場の重い雰囲気にも押されていた。


私はそれまでに あまりにもたくさんの心無い言葉を浴びすぎて、人は良さそうだったが事務的な仲裁役の弁護士が 果たして私の話を理解できるか、不安しかなかった。


それに心が後悔と痛みでいっぱいで、
私はとうとう最後まで仲裁役の弁護士にも私の弁護士にも、私が置かれている状態についての疑問を整理した言葉でぶつけることができなかった。

それほど私の失望は大きく、混乱していた。

 *―――*―――**―――*―――**―――*―――*

「仲裁」は当然、
決裂した。

待っていたように、私の弁護士は去って行った。
事務所開設のスケジュールを考えると、計算された行動だったと思う。

もともと引き受け手のなかった このケースだった

短くても関わったことで、弁護士は紹介者の顔も立てられる。


――でも、さすがに気がひけたのかもしれない。
最後のほうの出張費の時間給で 支払っていない分があったが、それは支払わなくて良いと言われた。
私は、彼に借りを作りたくない。
スッパリと縁を切りたかったから。
商品券などのお礼を、あとで送った。


私は紹介してくれた市民運動家にも、弁護士の苦情は言わなかった。
このひどい話が表に出ることはなかった。

でも、未だに私はテレビの画面などに「弁護士」や「医者」という肩書きの人が出てくると、その人にまったく罪はないのに、あのときのトラウマがよみがえってきて素直に見ることができない。
ただ、腹が立つ。
役柄だけでなく、それを演ずる役者にも。

迷惑な話だ。

今なら、その期間に どれほど私が自分を責め 傷ついたか、あの弁護士にちゃんと向かい合って伝えることができると思う。
たしか30万円 支払った着手金も、彼がしたことを考えると、返してくださいと言いたかったと今でも思う。


医者と弁護士と。
2つの職種に、トラウマが生まれた。

 *―――*―――**―――*―――**―――*―――*

仲裁が終わったあとも、少しの間、私はその弁護士を紹介してくれた 近所の市民運動家の集まりに参加した。
でも、そこは、集まって公権力と戦うこと自体に意義を見出しているとしか思えない、かつての学生運動家の名残りのような人たちが多く集まるところだった。

集会のあと、集まって飲み屋さんでほんとうに楽しそうに役所の悪口と社会の出来事を語る姿は、働き盛りで仕事に忙殺されているはずの世代の、
知識階級の1つの生き方 または息抜きの理想の姿のようにも見えた。

私の思いとは かなりの隔たりがあったけれど。



あとになって色々な人々に言われたことは、

「あと数年後だったら、よかった。世の中も 変わってきたから。あなたはきっと裁判でも闘うことができたと思う。あなたの意識が、世間より少しだけ前を歩きすぎたんだね」

本当にそうだったか そうでなかったか、私は途中で放棄してしまったから わからない。



「これが 1人でなく、富士見事件のように、同じ病院で複数の人がおなじ経験をしたなら記事にできるんだけど」

と言った週刊誌の記者もいた。


一人だって、被害は被害だ。

でも、これが当時の業界のルールというなら、私の挟む言葉はない。
これを「被害」と表現する人は、ほとんど いなかった。


 *―――*―――**―――*―――**―――*―――*

ただ一つ・・・


その病院の雇われ院長で私の担当医でもあった産婦人科医が、仲裁の話し合いの席で、
「ここで床にひざまずいて謝れと言うなら、私はいくらでも謝ります。申しわけないことをしたと思っています」
と言った。

裁判逃れの演技だったかもしれない。
でも、その言葉は 私の心の傷の10%ぐらいは 癒す効果はあった。


その間、病院は現場となったナースステーションの大改造工事をした。
私の気持ちに理解のあった婦長に、辞めた人を含む その場にいたすべての職員の口止め工作をさせ、そのあと彼女を他県に移動させた。

全体で着々と 逃げる体制を作った。


私は入院中、 部屋が空いていないと言われて 差額ベッドの高い部屋に入れられた。
元気になって院内を散歩したら、空きベッドがあちこちにあった。

夜中の病棟に、日本語が十分でない ブラジル日系人のヘルパーが一人しかいなくて、隣りの部屋の緊急ブザーに 私が駆けつけ、倒れた点滴のスタンドを立て直して人を探すような。
そんな、
ひどい病院だった。


私は関わってくれる弁護士がいない以上、私は法律のもとでは戦うことができなかった。
日本の各地には 今でもどこかで、私のように孤軍奮闘して辛い思いをしている人がいるかもしれない。


この国は、どこまで行っても組織中心の国で、個人で頑張る人には優しくない国のようだ。

私がこのような無駄なお金をあちこちに支払ってしまったのは、私が結婚して間もなくから海外で暮らして世間を知らなかったのと。

あとは世間一般の海外駐在員に対する間違った意識だったと思う。


私企業の海外駐在員は必要があって企業が費用を出して私たちを海外に送るだけで、それに見合う以上に私たちはこき使われる。

決してエリートでも金持ちでもない。
ただのサラリーマンだ。

それを勘違いしている人が 今でも世の中にはたくさんいて。


その世間の意識が、私の闘いを かなり色合いの違ったものに見せてしまった可能性がある。


・・・そうだ、富士見産婦人科病院事件の被害者に会ってみよう!

(続く)★☆☆

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コメント

ららちゃんさん。
辿り着いてくださってくださって、ありがとう

このところ人生初めての歯の痛みを経験して、歯医者通いなどでお返事が遅れてしまいました。
ごめんなさい。

私は子供を育て始めて病院と縁ができたのが主に海外だったもので、ドクターがドアを開けてくれるのが普通と思ってきました。
日本に帰って来て 椅子に根が生えているように動かない人たちに気がついた時はショックでした。

なかなか書きたいことを続ける時間は少ないのですが、声も力もささやかな私にとって、このブログを止めないことが社会参加の一部…と思って続けてきました。

今でも以前の記事にコメントをいただくことがありますが。
ららちゃんさん(変です?)のコメントに出会って、
止めなくてよかったと再び思いました。
目立つ行動をする人も必要かもしれませんが、ららちゃんさんのように意識の高い人が もっと増えないと、日本の医療は世界に置いて行かれます。

私はだいぶ前に、**医者は医療が好きな人であってほしい (海外・医療)**と書いたことがありました。
お時間があるときにカテゴリー別に検索してお読みいただけたらうれしいです。

私は自身もさまざまな病気のキャリアがあるので、医療と教育(結局、医療も始めは教育ですから)が私のメインテーマです。
また、ご意見をお聞かせください。

投稿: カニまま | 2017/12/02 22:39

こんにちは
医療機関の姿勢は、長い月日を経ながらも
何も変革していませんし被害患者の方々の苦悩は絶え間なく続いています

この事件で医療関係者が発した患者に対する尊厳や人権を踏みにじった言動を他のブログで眼にして此処に行き着きました

とかく国民は医療を妄信、崇拝し過ぎます
医療と宗教を巧みに操る医師やキリスト系の
医療理念を掲げる欺瞞に満ちた私立医大も存在して患者の救済は蔑ろになっています

特別な活動に参加しなくても、この問題に意識
や関心をこれからも持ち続けて行きたいと思います

投稿: ららちゃん | 2017/11/30 02:34

TSURUさん。
コメント寄せてくださって、ありがとう。

やっぱり この事件はご存じなかったのですね。
富士見の話をして私自身の傷に触るのが恐くて、今までブログに書けませんでした。
書いてよかったと思いました。

続きはできるだけ早く書きますね。


投稿: カニまま | 2010/11/10 18:04

カニままさん、こんばんは。TSURUです。

記事を拝見して、そして新聞記事を拡大して読んで、「何て言う……」。
言葉が見つからない…。
喉に粘土でも押し込められたみたいに。
言葉が…。

ただただ、壊れた人形のように、首を何度も横に振る事しか。
溜め息をつく事だって、軽々しく出来ない。

何でなんでしょう?どうしてなんでしょう?

投稿: TSURU | 2010/11/08 21:51

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